[photo by Clicking Mad]
これまで3回にわたって、ダルメシアンが直面している健康問題についてのお話しをしてきました。そのひとつである聴覚障害について、務台英樹博士にお話を伺うことができました。獣医師でもある務台さんは、聴覚研究の専門家であり、現在、国立病院機構東京医療センターの臨床研究(感覚器)センター聴覚平衡覚研究部で研究をされています。
ダルメシアンの聴覚障害の研究のはじまり
ダルメシアンの聴覚障害研究が始まったのは、半世紀も前にさかのぼると以前の記事に書きましたが、さらに古くからされていたことを教えていただきました。1世紀以上も前の1896年に、Rawitz という人がダルメシアンの聴覚障害と体毛の色とに関する報告をしているそうなのです。そんなにも昔から研究報告がされていたとは、驚きを隠せませんでした。あまりにも文献が古すぎるため、最初に研究が始まった背景についてははっきりと分からないそうなのですが、かつて務台さんが米国での学会に出席した際、とある獣医大学の方から次のようなお話しを伺ったそうです。
「“遺伝的に学習能力が悪い犬であり、それが体毛の色と関連している”という研究として始めた。しかし、実際は“音による指示で、ある行動をさせる ”ことが上手く学べないということであって、実験に使ったダルメシアンが難聴だったために指示が聞こえていなかったのだ、ということが後に判った。」
ただし、この説に関しては、「このことが、Rawitz という人が実際にどこかで書いていることなのか、“ニュートンが、リンゴが木から落ちるのを見て、万有引力の法則を発見した”というような、他の誰かに よって作られた伝説のような話なのかは現時点では不明です。“ダルメシアンの先天性聴覚障害の発見に至ったひとつの説”として理解してください。」とおっ しゃっていました。
聴覚障害をもたらす遺伝子
ダルメシアンの先天性聴覚障害の原因には、複数の因子が関与しているだろうというのが現在の見解だそうです。というのも、ひとつの因子(遺伝子)が原因となっている場合には、いわゆるメンデルの遺伝学の法則の原理によって次世代へとその病気が伝えられていくのですが、ダルメシアンのそれはメンデルの法則にのっとったパターン通りにはなっていないそうだからです。
「ダルメシアンの聴覚障害に関連する遺伝子が明らかにされたのは、つい最近の2007年のことです。それは MITF と呼ばれる遺伝子なのですが、遺伝子そのものに変異が起きているわけではなく、その遺伝子を働かせるための重要な部分に変異が起きてしまっているために、必要量の MITF を作り出す能力を持つことが出来ないことが大きな原因となっています。実は MITF 遺伝子は、人間のワーデンブルグ症候群と呼ばれる疾患の原因遺伝子でもあるのですよ。」と、務台さん。
ワーデンブルグ症候群は、髪の毛も含んだ体毛に白斑ができ、目の虹彩の色の異常、そして、高い確率で生まれつき片方または両方の耳が難聴となる疾患です。この病気を抱える方は、MITF が正しく働くことができないために、内耳にあるメラニンを作り出す細胞が死んでしまうことが原因で、正常な聴力が保つことが出来ないそうです。この疾患と、ダルメシアンの聴覚障害の起きる仕組みはとてもよく似ている部分があるそうです。
「先天性難聴には、出産時に低酸素状態であった場合や、胎仔期のウィルス感染も原因として十分に考えられますが、特定の犬種でよく見られるものについては、殆どの場合体毛の色と関連するという報告ですので、やはり、遺伝性のものだと考えられています。」
耳の聞こえを確認するには?
では実際に、どのようにして耳の聞こえを確認することができるのでしょうか?
「犬も人間も同じですが、聴力が低い場合には他の能力でそれをカバーしようとします。ですが、物音に対する反応を見たり、後ろからそっと近づいて身体に触ってみることで、ある程度の予測がつくと思います。聴覚の精密検査をする場合には、聴性脳幹反射(BAER)テストというものがあります。」
BAER は、人の病院であればそれこそ普通の装置ですが、動物病院にはほとんど普及していないのが現状のようです。このような装置がもっと普及すれば、聴覚障害を持っているかどうか確認をしてから繁殖を行う、または、子犬の耳の聞こえをテストしてから譲るようにするということができるようになるのにと思いました。
[photo by Havtahava Havanese]
BAER テストを受ける子犬。
犬に対する聴覚障害の治療法は?
聴覚障害を持って生まれてきた場合、それを人間のように、補聴器や人工内耳を使ってカバーすることが出来るのかどうか尋ねてみました。海外では、犬のための補聴器を試作したことがあるそうなのですが、やはり、犬に使うことは難しいそうです。まず、動物に装着し続けることが難しいことと、刺激する時の出力、つまり、音の聞こえ方を個体ごとに微調整することが難しいからだそうです。
しかし、ダルメシアンに限って言えば、聴覚障害と MITF という物質の量とが関連していることは確実なので、MITF がメラニンを作る細胞で正常に作り出すことができるようになる薬を与えるか、MITF そのものを補充すればよいのではないか?というようなアイディアは浮かんでくるそうです。つまり、外科的な処置を行わず、内科的な治療法が開発される可能性があるかもしれないわけです。さらに、人間に対しては、『未来の医療』として、遺伝子治療や再生医療の研究が盛んに行われています。それに関しても、将来的に獣医領域にも応用される可能性はあり得ると思うというお話しでした。
「ただし、これらの治療法が開発されたとしても、本当にその治療が犬自身の幸福につながるかどうか、ということは、実は深い問題だと思います。正常な聴力をもって生活していた動物が難聴になった場合、他者とのコミュニケーション能力が低下する不便な日常を、幸福だとは言いがたいでしょう。しかしたとえば、生まれつき難聴である場合、本人にとって音のない世界は通常の世界であって、それが幸福か不幸かは判断のしようがないです。“音が聞こえた方が幸せ”という考え方は、飼い主の一方的な価値観の押しつけだ、という議論は成り立つのではないでしょうか。」
人間はどのようにして犬の幸せを考えていけばいいのでしょうか。それは永遠に問いのままであり、答えは出せないものなのかもしれません。最後の務台さんの言葉が、心にずっしりと響いてきました。
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前回コメントを書き込みさせていただきましたBPと申します。
今回も、とても興味深い記事を掲載くださり感謝いたします。
聴覚障害を持つダルメシアンを保護団体さんから譲り受ける事を決めた時、知る限りの獣医大学病院に連絡を取りBAERの設備について問い合わせました。
一番近い大学病院に設備があったため、検査を申し込みましたが・・・実際共に生活を始め、その生活ぶりに触れてみて、全く音が聞こえていないことは明らかだったため検査を受ける事に意味を見出せなくなり(麻酔で身体に負担をかけたりストレスも想像できたので)取りやめました。
私は”音が聞こえない”ということはひとつの個性だと思っています。音が聞こえなくても、それをハンディキャップと感じないほどの感受性と表現の豊かさがあるように思います。
3歳になりましたが、ハンドサインで私の意志をはっきり伝えることができますし、只今アジリティと訓練競技会に挑戦中で5月に競技会デビューもしました。
音の無い世界で生きている我家の愛犬の生きる姿から学ぶべき事は限りないです。
投稿: BP | 2009/06/25 21:21
追記させていただきます、
英国のドッグトレーナーであるBARRY EATON氏が、ご自身が聴覚障害のあるB・コリーを引き取りトレーニングした経験をもとに書かれた聴覚障害犬のトレーニングガイド「HEAR,HEAR!」という本が出版されています。
日本語版が出版される予定はないとのことなので、卒業してから数える程しか開いていない辞書を本棚の奥から引っ張り出し訳して読みましたが、身体全体、顔の表情などをフルに使って「表現し伝える事」の意味を再確認しとても参考になりました。
投稿: BP | 2009/06/25 21:46
BPさん、
コメントありがとうございます。
BPさんが、聴覚に障害を持ったワンちゃんを引き取ることを決意され、そして、そんなワンちゃんのQOLを高めようと一生懸命されていることがとても伝わってきます。
音の無い世界・・・そうですよね。言葉では言い表せないほどに感じることがたくさんある生活を送っていらっしゃるのでしょうね。BPさんも五感のみならず、第六感も研ぎ澄まされていらっしゃるのだろうなと思います。
アジリティや訓練競技会も、愛犬と一緒に楽しんで続けてくださいね。
投稿: 尾形聡子 | 2009/06/25 22:15